Henri Poincaré『科学と仮説』
- 作者: ポアンカレ,河野伊三郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1959/01/01
- メディア: 文庫
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すべてを疑うか、すべてを信ずるかは、二つとも都合のよい解決法である、どちらでも我々は反省しないですむからである。
数学についてはその可能性からしてすでに解けない矛盾であるように思われる。もし数学が演繹的なのはただ見かけに過ぎないならば、だれも夢にも疑おうとしないこの完全な厳密性はどこから来るのか。もし反対に数学で述べられている命題全部が形式論理学の規則によって次から次へ引き出すことができるならば、どうして数学は大規模な同語反復に帰しないのであろうか。
ユークリド幾何学は真であるか、という問を何と思考すべきであろうか。
この問は何も意義を有しない。
それはメートル法が真であって、旧度量衡法が偽であるか、デカルト Descartes の座標〔平行座標〕が真であって、極座標が偽であるかとたずねるようなものである。一つの幾何学がほかの幾何学以上に真であるということはない。ただ或る幾何学がほかのものよりももっと便利であるということがあり得るに過ぎない。
我々はとうとう次のような定義に追いつめられた。これは無力の告白にほかならない。すなわち、質量とは計算に導入すると便利な係数である。
我々にはもうエネルギー恒存の原理としては一つの命題しか残っていない。すなわち恒常のままに止まっている何かがある、ということだけである。
「すべての人々はその法則をかたく信じている、なぜかというと数学者はそれを観測的事実だと考えているし、観測者はそれを数学の定理だと考えているからだ」
実験は真理のただ一つの根源である。実験のみが我々に何か新しいことを教える、実験のみが我々に確実性を与える。この二つの点については、だれも異論をさしはさむことはできない。
観測するだけでは十分でない。これらの観測を利用しなければならないし、それには一般化を行わなければならない。
人が事実を用いて科学を作るのは、石を用いて家を造るようなものである。事実の集積が科学でないことは、石の集積が家でないのと同様である。
あらゆる一般化はそれぞれ一つの仮説である。だから仮説には、いままでだれも異論をはさまなかった一つの必要な役割がある。ただ仮説には、いつでもできるだけ早く、できるだけ何度も、検証を行わなければならない。もし仮説がこの試練に堪えられないときには、もちろん心残りなくこれを投げうたなければならない。
説明が必要であった。説明は見いだされた。いつでも見いだされるものだ、仮説とは最も欠乏することのない資本である。
我々のできることは、ただ今日の科学を観察して、これを昨日の科学と比較することだけである。