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Greg Egan『ディアスポラ』

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

数学的概念を把握する唯一の手段は、それをいくつもの異なるコンテクストの中で見、何ダースもの具体例について考え抜き、直感的な結論を強化するメタファーを最低ふたつか三つ見つけることだ。『曲率は、三角形の内角の和が180°にならないかもしれないことを意味する。曲率は、平面を一様でないかたちでのばすか曲げるかしなければ、平面で表面をつつめないことを意味する。曲率は、平行線をうけいれる余地がないことを––あるいは、かつてユークリッドが夢想だにしなかったほど大きな余地があることを、意味する』というように。ある考えを理解するとは、それを自分の精神内のほかのシンボルすべてと徹底的に絡みあわせ、あらゆることについての自分の考えかたを変えることだった。

コズチ理論においては、ありとあらゆるものがワームホールだった。真空でさえ、10-35 メートルのプランク=ホイーラー長で見ると、短命なワームホールの泡になる。ジョン・ホイーラーは1955年という早い時代に、一見滑らかな一般相対論的時空も、このスケールだと量子ワームホールのもつれあった迷路であることが判明するだろうと示唆した。だがそのワームホールを、探知可能な限界をはるかに超えた難解な珍説から、物理学における最重要構造へと一変させたのは、ホイーラーのもうひとつの発想であり––その発想はホイーラーの百年後に、レナタ・コズチによってようやくまとめあげられ、めざましい成功をおさめたのだった。その発想とは、素粒子そのものがワームホールの“口”であるというもの。電子、クォークニュートリノ、光子、W-Zボソン、グラビトン、グルーオン、といったものはすべて、やや長命だったバージョンのはかない真空ワームホールの口にすぎないのだ。
コズチは二十年以上をかけて、ほかの数ダースの専門家の有望に見えたが頓挫した業績をまとめあげ、ペンローズのスピン・ネットワークから紐理論のコンパクト化された余分な次元にいたるまでのあらゆるものを拝借して、ホイーラーの仮説を精緻化した。彼女は通常の四つの次元とともに六つの極微小の次元を考えにいれることで、異なる位相トポロジーをもつワームホールがいかにして既知の粒子すべての特性を生みだすかを示した。まだだれもコズチ - ホイーラー・ワームホールを直接観察してはいないが、千年のあいだ実験によるテストに耐えてきたことで、このモデルは粒子に関する計算の大半に使える最良のツールとしてばかりでなく、物質世界の基礎をなす秩序としても広く認められている。

ベートーベンに永遠の価値があるなら、排尿も同様。

つまるところ、すべては数学なのだ。