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James Gleick『インフォメーション―情報技術の人類史』

インフォメーション―情報技術の人類史

インフォメーション―情報技術の人類史

電気を熱く語る者たちは過去を振り返ってみて、ヨブ記の一節で現代が予告されていたことに気づいた。「汝は稲妻を送り出し、先へ進ませて「われらはここにあり」と言わせることができるのか?」

情報とはエントロピーである。これは、最も意想外かつ強力な見解だった。エントロピー––かねてから難物とされ、ろくに理解されていない概念––とは、熱とエネルギーの科学である熱力学における無秩序の物差しだ。

シャノンはチューリングと真っ向から対立する立場だった。「機械が考えるという発想は、けっしてわれわれ全員にとって不快なものではない」と、ある工学者に語った。「じつのところわたしは、逆の発想、つまり人間の脳自体が機械であり、その機能を無生物で複製できるかもしれないという発想に引きつけられる」。ともかくそういう発想のほうが「無形の、手の届かない“生命力”や“魂”たましいなどを仮定する」より有用だった。

ある程度の期間、第二法則から逃れていること、または逃れているように見えることがまさに、生物が「とても謎めいて見える」理由なのだ、とシュレーディンガーは感じた。有機体には永久運動と似たふるまいをする能力があるものだから、あまりに多くの人々が特別な、超自然的な“生命の躍動”を信じさせられている。

生命史は負のエントロピーという観点から綴られる。「実際に進化するのは、情報のあらゆる形や変形である。仮に、生きている生物のための手引き書のようなものがあるとしたら、一行目は聖書の戒律のごとく読めるだろう。“なんじの情報を拡大せよ”と」

「わたしがやっているのは、遺伝子がその特性の定義上、複写の形でほぼ不滅の可能性があると強調することだ」と、ドーキンス。その意味では、生命は物質的な制約から解き放たれる(あなたがすでに魂の不滅を信じている場合を除いて)。遺伝子は情報を運搬する巨大分子ではない。遺伝子は、情報そのものだ。

それイットはビットより生ず”。ホイーラーの観点は極端で、非物質論的だった。情報がしゅ、ほかのあらゆるものがじゅうだった。「換言すれば」と、ホイーラー。


あらゆるそれイット––あらゆる粒子、あらゆる力場りきば、さらには時空連続体そのもの––の機能、意味、存在自体が……“ビット”に由来する。


なぜ自然は量子化されているように見えるのだろうか?それは、情報が量子化されているからだ。ビットこそ究極の、分割不可能な粒子なのだ。

「確率的な自然(Nature)をシュミレートするもうひとつの方法、さしあたりNと呼ぶ方法は、みずからも確率的である計算機Cによって確率的自然をシュミレートするのではあるまいか」。ファインマンによれば、量子計算機とはチューリングマシンのことではなかった。まったく新しい何かであるはずだった。

「ついに行き着いたとき、訪れるのは嘆きだろうか?いや、意味の確立における基本単位としての“ビット”という用語の、明徹な定義の不在を寿ことほぐべし……桁外れに大きな数のビットを結合させることで存在と呼ばれるものを獲得するすべを、われわれが学び取ったあかつきには、ビットと存在の両方で指すものをよりよく理解することとなろう」

ボルヘスは悩む。「あらゆるものがすでに記されているという確信は、わたしたちの存在を無に、またはまぼろしに変えてしまう」