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神林長平『言壺』

言壺 (ハヤカワ文庫JA)

言壺 (ハヤカワ文庫JA)

おれが書きたい文は、こうだった。
『私を生んだのは姉だった。姉は私をかわいがってくれた。姉にとって私は大切な息子であり、ただ一人の弟だった』
これが、どうしても書きあらわせない。

わたしが表現したいものは、本来言葉にならないものなのだ。
そんなことは少し考えてみればだれにでもわかる。そこはかとない人生の哀しみ、などというものが一語で表現できるのなら、その一語でこと足りる。

人間は言葉をもったときから自然界とは切り離された仮想空間で生きる生物となったのだ

「精神構造が言語構造を生むのか、その逆なのか、どう思う。どっちが先だと思う」
「それは」とぼく。「ヒトが先だろう」
「それはどうかな。聖書では、最初に言葉ありき、とある」

言葉は、ただそこにあるだけだ。言葉に気持ちなどないし、保存もできない。

<お父さんも先生と同じだわ。書けばいい、書きなさい、という。でも、書くたびに変わっていくでしょう、取っておけないのだから。わたしはそんな意味のないことをしたくない>
<したくない、などという言葉を使ってはいけない>