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多和田葉子『聖女伝説』

聖女伝説 (ちくま文庫)

聖女伝説 (ちくま文庫)

ホルモンというのは、どういうものか分かりませんでしたが、内側から物の外観を変化させる液体なのだろうと思いました。石にホルモンを注射したら、パンになるのでしょうか。

こうなったら、意地でも男の子を生まないようにしなければなりません。わたしは、絶対に女の子を生もうと決心しました。女の子を生んで、ふたりで聖女になって、世界を歩き回るのです。

血が契約の印だとしたら、いったい、わたしはどんな契約をしたというのでしょうか。

<罪を犯す者は、自分が悪魔。罪を犯す者は、自分が悪魔。なぜって、罪をもたらしたのは悪魔だから。>
よく意味が分からないので、おかしな翻訳になってしまいましたが、これもカンタータの一節です。あくうううううま、と悪魔という言葉が長く長く引き伸ばされ、その内部で多彩な音程が上下左右するのに身を任せていると、陶酔感と不安感に取り憑かれます。あくま。あく、くう、うま。開く、空、馬、大きく口を開いた宙、それがわたしです。いけにえにされる馬じゃない。いけにえにされて川に投げ込まれる馬。その馬ではなくて、川がわたし。ところが、そこに突然大きな影が現れて、川のように横たわるわたしの身体にワニのようにかぶさりました。網の中で、わたしの身体は水の中に沈んでいく馬の屍のように重くなりました。やっぱり、川ではなく、馬がわたし。

わたしは聖人を生むと言ったのではありません。聖人を生みたくない、と言ったのです。なぜなら、自分自身が聖人になった時、夫や息子は邪魔になるからです。時間を取られるから邪魔になるのではありません。彼らが現れた途端に、わたしの身体が門に変身してしまうからです。
<立派な身体は門のようなものではないのですか。>
と孔雀先生に言われて、わたしは、違う、違うと、激しく首を左右に振りました。
<だったら、身体がなくなってしまったらいいと思いますか。>
とカケス先生に聞かれて、わたしはまた首を横に振りました。
<違う、違う、全然違う身体が欲しい。それを捜しに、旅に出ます。それがなければ、わたしは尿と涙の中で、溺死してしまう。旅に出て、聖人になってみせます。>

わたしの目の中から、白いものが便器の中に落ち始めました。それは、パン粉でした。涙ではなく、液体でもなく、乾いたパン粉がはらはらと降るのでした。水の中に落ちると、それはふやけて溶けていきました。ちぎれた雲の断片が夕闇に飲まれていくようでもありました。ひょっとしたら、人は便器を通して空を見るのかもしれません。