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國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』

私が何ごとかをなす。
しかし、
「私が何ごとかをなす」とは
いったいどういうことなのか?

I do something.
But,
what does it mean,
“I do something” ?

ウィトゲンシュタインのこの引き算式は、単に引き算の答えを求めているのではない。これは「意志」やら「意図」やらを、あくまでも 構文の差として、すなわち、構文のもたらす効果として捉えようとする視点の提示であり、またそれについての問いかけである。

われわれは、あらゆる動詞が能動態と受動態をもち、それらがいずれも過去や完了や現在や未来などの時制に活用するという漠然としたイメージをもっている。しかし、少なくとも完了時制はそのイメージに抗う。「完了はギリシア語の時制体系に収まりきらない」。
つまり完了は、時制であるにもかかわらず、態の区分に干渉するということである。そして、そのような特別な地位をもつ時制である完了が、中動態と深い関係をもつ。

能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。

そこでは主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであって、意志は問題とならない。すなわち、能動態と中動態を対立させる言語では、意志が前景化しない

選択と区別されるべきものとしての意志とは何か? それは過去からの帰結としてある選択の脇に突然現れて、無理やりにそれを過去から切り離そうとする概念である。しかもこの概念は自然とそこに現れてくるのではない。それは呼び出される。
「リンゴを食べる」という私の選択の開始地点をどこに見るのかは非常に難しいのであって、基本的にはそれを確定することは不可能である。あまりにも多くの要素がかかわっているからだ。
ところがそのリンゴが、実は食べてはいけない果物であったがゆえに、食べてしまったことの責任が問われねばならなくなったとしよう。責任を問うためには、この選択の開始地点を確定しなければならない。その確定のために呼び出されるのが意志という概念である。この概念は私の選択の脇に来て、選択と過去のつながりを切り裂き、選択の開始地点を私のなかに置こうとする。

フーコーが権力概念の刷新のために相当苦労しなければならなかったのも、能動性と中動性の対立がもはや存在せず、すべてが能動性と受動性で理解されてしまう、そのような言語=思想的条件があったからである。

「動詞とは発達した名詞である」

次のように言えよう。中動態が失われ、能動態が受動態に対立するようになったときに現れたのは、単に行為者を確定するだけではない、行為を行為者に帰属させる、そのような言語であったのだ、と。出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行––そのような流れを一つの大きな変化の歴史として考えて見ることができる。
行為の帰属を問う言語が、その帰属先として要求するのが意志に他ならない。意志とは行為の帰属先である。哲学者のジョルジョ・アガンベンは、意志とは行動や技術をある主体に所属させるのを可能にしている装置だと述べている。選択(プロアイレシスないしリベルム・アルビトリウム)から区別される限りでは存在するかどうかすらあやしいこの意志の能力が、行為を記述するとなると突如引き合いに出されるのはそのためだと考えられる。

細江の述べていることを大昔の話と考えてはならない。現代英語においても、受動態で書かれた文の八割は、前置詞by による行為者の明示を欠いていることが、計量的な研究によってすでに明らかになっている。つまり、ほとんどの受動態表現は能動態表現に転換不可能だということである。

人は意志するとき、ただ未来だけを眺め、過去を忘れようとし、回想を放棄する。繰り返すが、意志は絶対的始まりであろうとするからである。そして、回想を放棄することは、思考を放棄することに他ならない。なぜならば、人はそれまでに自分が受け取って来たさまざまな情報にアクセスすることなしにものを考えることはできないからである。
つまりハイデッガーはこう言っているのだ、意志することは考えまいとすることである、と。

ドゥルーズの動詞礼賛は、実際には不定法の礼賛である。動詞と言いながらも、ドゥルーズは実際には人称も時制も態もない不定法のことを考えている。言うまでもなく、不定法は動詞が名詞として扱われる形態である。

スピノザの言う神は自らを刺激しつつ、刺激を受けることである状態へと生成するという中動態的な過程のなかにある。そして、神、すなわちこの自然は無限であって、神に外から働きかけるものはいない。すなわちここに描かれているのは、中動態だけが説明できる世界である。
言い換えれば、スピノザの言う神すなわち自然そのものを説明するにあたっては、中動態(内態)に対立する意味での能動態(外態)には出番がない。この世界には外がないのだから、その外で完遂する過程を示す態は必要ないのだ。
スピノザが構想する世界は中動態だけがある世界である。内在原因とはつまり中動態の世界を説明する概念に他ならない。

中動態の哲学は自由を志向する