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町田康『告白』

告白 (中公文庫)

告白 (中公文庫)

安政四年、河内国かわちのくに石川郡赤坂村字水分すいぶんの百姓城戸きど平次の長男として出生した熊太郎は気弱でどんくさい子供であったが長ずるにつれて手のつけられぬ乱暴者となり、明治二十年、三十歳を過ぎる頃には、飲酒、賭博、婦女に身を持ち崩す、完全な無頼ぶらい者と成り果てていた。
父母の寵愛ちょうあいを一心にけて育ちながらなんでそんなことになってしまったのか。
あかんではないか。

熊太郎は自分さえちゃんとすればすべてちゃんとなると思っていた。自分がちゃんとすれば田などすぐ耕ると思っていた。ところが田はちゃんと耕らなかった。

焦れば焦るほど言葉は迷走した。
「ちゅうかわしを気ちがいやとおもてんの? それはちゃうで。あ。雀が天麩羅てんぷら食べてるよ、って、あ、しまった。これは冗談のつもりで言うたんやけどね、いまこんなこと言うたらよけおかしいとおもわれるやんなあ。ちゃうで、冗談や。冗談を言えるゆうことは正気の証拠やとおもてゆうたんやけど、あかんかったわ。よけいおかしいとおもわれたっちゅうことをわかってるゆうことは正気やとおもわへん? おもわへん?」

つまり富は俺を好いているということにどうしてもなってしまう。それだけでは弱いと言うのであれば、富は既に俺の悪評を聞いて知っていると言っていた。にもかかわらず、向こうから俺に声をかけ、さらには、自分はさぞかし評判が悪いでしょうと問うた俺に対して、自分はそんなものは気にしないと明言したのである。これはもうはっきり、自分はあなたが好きだと明言したも同然で、つまり富はどう考えても俺に惚れているとしか思えない。どうだ。これをみたか? これまで俺を農作業ひとつできぬ愚者と馬鹿にしてきた駒太郎や小出や竹田。なめやがって。しかしながらざまあみさらせ。俺が富とでき合っているということを彼奴らが知ったらどんなにか羨ましがるだろうか。口惜しがるだろうか。おほほ。それくらいに富は美しいのだ。好き好き富ちゃん。俺は富のことを考えるといてもたってもいられない。る瀬ない。

しかるに、なんですか、あの熊次郎は? なにを余裕かましているのですか? はあっ? パルドン? 

夜がけていった。外は雪。内は。

世界に薄墨が垂れていった。池田屋の薄汚い壁にも、寅吉にも空にも金剛山にも薄墨が垂れた。やあ、世界に薄墨が垂れているな、と思ったけれども、まあ、いずれとまるだろうと高をくくってなにもしないでいたら、どこから垂れてくるのか、薄墨はちっとも止まらず、やがて全世界が薄墨に染まってしまった。こんな薄墨が垂れて厭だな。ぼんやりそんなことを思って悲しくなったがその悲しさは、この薄墨の世界が存在していることそのものに関係する悲しみで、改めて悲しいと実感するまでもない、持続的恒常的悲しみであった。

「私の気持ちは問題じゃない。なぜなら、私の気持ちとは関係なしに母はお金が要るからです。私の気持ちとは無関係に日は昇るし、日は沈みます。人が生まれ、人が死にます。これらは私の気持ちとなんの関係もありません」

中天に太陽が輝いていた。
熊太郎が目を細めて太陽をみると、太陽の中心から陰茎が垂れ下がっていた。あんなところにあるなんていったい誰の陰茎だろう? 熊太郎は訝った。

悪の芽はこれを摘んでおかなければならない。正義のために。殺す。殺す。殺す。殺す。全員殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。全員殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。全員殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。全員殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。全員殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。全員殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。全員殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。全員殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。全員殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。全員殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。全員殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。全員殺す。

曠野であった。
なんらの言葉もなかった。
なんらの思いもなかった。
なにひとつ出てこなかった。
ただ涙があふれるばかりだった。