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Daniel Heller-Roazen『エコラリアス』

エコラリアス

エコラリアス

谺する言語エコラリアスは、自らが消滅することで言語の出現を可能にする言葉にならない記憶の彼方の喃語の痕跡なのだ。

遅かれ早かれ、どんな言語も音を失う。それは逃れようのないことだ。

言語の終わりはただ一瞬というよりも、何世紀にもわたって起こる変遷である。多くの場合、これが死の瞬間だと人がいう時、それは出来事ではなくて、ひとつの閾であり、それを通じて、あらゆる言語は、不可避の「ある言語体系から他の言語体系への通過」を通して、最終的には消滅することを強いられる

言語はいかにしても同じ形でいることはできず、好むと好まざるとにかかわらず、「毎日我々の手からこぼれ落ちていく」のだ。本質的に変わりやすい言葉は、自らの構成要素である時間のおかげで、人の所有物に完全になることはなく、また、それゆえに、完全に失われることもない。いかなる時もすでに忘れられたものとして、言語はあらゆる想起に抗う。

実際に存在している言語を説明することを願うのであれば、人は、最終的に、言語の存在しない形態に向かわねばならないのだ。そのように、アステリスクはまた輝く。ある言語の細部はもう一つの言語の光、太古のものであれ容認できないものであれ、常に造り上げることによってのみ成り立つ言語を通じてしか観察することができない。この小さい星だけが、固有の言語の大洋の上での航行を可能にする。

失語症患者は、「他の人と同じ」ように話すことができる。ただ、彼らは「人よりも良い記憶を持っている」。彼らはかつての話せない能力を忘れたことがなかった。そうすると、彼らの記憶は単に良いという以上のものになるだろう。というのも、その記憶は、主観的な生に先立つ幼児の喃語の時代にまで遡るだろうからだ。その記憶は彼らに、どんな記号にも対応しない「人生の時期」(Lebensepoche)を思い出させる。または「書き込み」そのものの白い項を。黙ったまま、失語症患者は執拗に、かつて決して書かれたことがなく、これからも言われえないことを立証している。時として、記憶が破壊的であるのと同じくらい忘却は生産的だということを結論づけなければならない。記憶は沈黙に終わることもあるし、忘却が言葉に導くかもしれないのだ。

先立つものの忘却、と定義されたそれぞれの言語はその時、十全な意味で「修復」として現れてくる。それは、失われたものに対する治療薬であると共にもう取り返しのつかない喪失の確認なのだ。それは、自分に先立つものの再構成であると同時に、矛盾するようだが、その構成を壊すものでもあるのだ。言葉によって、わたしたちはいつでもすでに忘れ始めている

バベルは、破壊されてなおも生き延びている。そしてわたしたちは、言語の混乱の中に投げ出され、混乱の中に生きているのかもしれない。この、絶えざる忘却の中に。