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Richard Powers『舞踏会へ向かう三人の農夫』

写真に付されたキャプションが、ひとつの記憶を呼び起こした。舞踏会へ向かう三人の農夫1914年。年を見るだけで、三人が舞踏会に予定どおり向かってはいないことは明らかだった。私もまた、舞踏会に予定どおり向かってはいなかった。我々はみな、目隠しをされ、この歪みきった世紀のどこかにある戦場に連れていかれて、うんざりするまで踊らされるのだ。ぶっ倒れるまで踊らされるのだ。

––すごいじゃない? あたしたち、復員軍人の日に仕事してるなんて。
単独トリプルプレーである。「すごい」とはお世辞にも言いがたいし、みんなどう見ても「仕事して」などいないし、実のところ今日は復員軍人の日ですらない

話題が何であれ、由緒ある方法を私は用いる。まずそれぞれの分野に関して、五、六人の人物名と、おおよそ同数の基本的用語を記憶しておく。そしてそれらを適当に組み合わせてひとつの見解に仕立て上げ、それが個人的主観にすぎぬことを言い添えるのだ。「僕にとっては、ウェストンの構成センスの方がストランドの被写界深度よりずっと興味深いですね」

「はじめに神ウンチを造りたまえり、え? あ、失礼。天地を造りたまえり。失礼、父上母上。馬鹿な息子で相済みません。馬鹿なオランダ人で」。

文化的変化はいまや、あまりにも速く走るため自分自身を追い越してしまう走者、という昔ながらのジョークの域に達した。変化する趣味、教義、イズム、理論など、かつては逐次的な文化的変化という古いモデルにしたがっていたものが、1913年にはいまやつぎつぎ目まぐるしい速さで変わるようになっていて、たがいに追い越しあうところまでエスカレートしていき、ついにはまったくの自発性へとなだれ込んでいった。アヴァンギャルド のあまりに前に進んでしまったため、やがて一周遅れの衛に追いついて、一緒に並んで走りはじめた。未来派の「より速く」というマニフェストは、ひとたび終端速度に達すれば、「すべて同時に」という主義と化すほかなかった。そしてこの同時性は今日でも持続している。第三世界軍国主義、郵便による銀行取引、テレビのゲームショー、保守派宗教の復活、コンセプチュアル・アート、パンクロック、新ロマン主義等々が今日の世界にあっては共存している。
逆説的なことに、超進歩はやがて、静止と化す。過去三十年において世界はキリスト以降の年月以上に変わった、という命題はいまだに真である。いまだに真だということは、ペギー以来何も変わっていないことになる。社会的文化はおのれの尻尾を口にくわえ込み、ベンゼン環を形成した。芸術はいまや芸術自身を主題かつ内容としている。絵画についてのポストモダニズム、作曲をめぐる十二音技法、フィクションに関する構成主義小説。さらに言うなら、世紀はそれ自身についての世紀、歴史についての歴史となった。それは静止した、折衷主義の、あまねく自己反映的で、均一に多様な閉じた円環であり、新星出現につづいて宇宙空間に生じる均質的な残骸である。この世紀にあっては、何かが起きればかならず、何か同時に別の出来事が生じてそれと結びつき、共謀してひとつの全体を形成せずにはいない。

そうしてじき彼も、そういう瑣末なことは忘れて、肝腎の仕事に取りかかった。ズボンの前を開けようとしたが、見ればもうすでに開けてあった。彼女をうしろから征服すべく、じりじりとすり寄っていく。と、一瞬、彼は身を引いた。シナプスの交叉による刺激が、しばし彼を呆然とさせた––いま自分が触れたものは、彼女のドレスの内側に棲みつく目的でゾイデル海から陸地を三百キロ旅してきた海洋哺乳動物だとつかのま信じて。

実用性ということでいえば、『フィデリオ』はパセリやナプキンリングとほぼ同ランクに位置する。

彼女を石にしたのは、退屈に染まった礼儀正しさではなかった。
––あんたの写真、昔から知ってるよ。

本当の力と、本当であるように見えるだけの力とは、いったい何が違うんだろう。

––あたし、退行してるの。
数秒のうちに、何度か器用に曲げたり折り込んだり、トポロジー的大変革がなしとげられて、プログラムは日本の折り紙でよく見る優美な姿に変容した。白鳥か、白サギか、青サギか、とにかく二人のうちどちらも決して実物を目にすることがないであろう、何か絶滅寸前の水鳥である。彼女は鳥の喉をつかんで、尾を引っぱった。紙の翼が飛行を模倣してぱたぱたはためいた。
羽をはためかせたまま、アリソンは喉をブルブル鳴らしはじめ––エンジンがかかる音だ––突然、宙高く鳥を放り投げた。鳥は彼らの三列前に降り立ち、コンサートの常連らしき貴婦人の上に落下した。婦人は二人を犯人と特定し、死刑執行人の冷たい凝視を浴びせてきた。アリソンが息をひそめてささやいた。
––なんだよオーヴィル1、今度は絶対うまくいくって言ったじゃないか。

システムに何の干渉も加えずにシステムを理解することは不可能だ、といった見解を我々は今日ごく日常的に耳にする。そこまでは私も十分承知していた。一連のフォード伝を再読するまで私に思いつかなかったのは、そういった立場自体、すでに何かに影響されているということだ。一般化すれば、結局それは自己の権威を否定していることになる––「すべての言説はその時代の産物である。この言説にしても」。

––いいじゃない。恥ずかしがらなくったって。あんたにキャッチできないパスは出さないわよ2

その静かな、諦念のこもった「ヤー」が、ひとつの人生をまるごと伝えていた。その一音節に意味を満たすよう、彼女は私をいざなっていた。

––世の中には絶対誰にも証明できないことがある。あんたが今日ここで一緒にお茶を飲んでったこともそうだよ。

三人の農夫がぬかるんだ道を歩く。当面、それでよしとせねばなるまい。


  1. 飛行機を発明したオーヴィル/ウィルバーのライト兄弟への言及。

  2. I won’t make any passes you can’t catch. "pass(es)“ には「(ボールの)パス」という意味と「異性に迫ること」という意味がある。"I won’t make any passes” までは「あんたに迫ったりなんかしないわよ」と聞こえ、途中から意味がねじれる。