Thomas W. Laqueur『セックスの発明―性差の観念史と解剖学のアポリア』
- 作者: トマスラカー,Thomas Laqueur,高井宏子,細谷等
- 出版社/メーカー: 工作舎
- 発売日: 1998/04
- メディア: 単行本
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少なくとも二つのジェンダーがありながら、セックスは(多様なヴァージョンを含むとはいえ)一つしかないという古い身体モデル、「ワンフレッシュ(単一の肉体)」が古代に造り上げられたのは、じつはきわめて政治的な理由による。それは知覚に明らかな「母」に対し、文化的な主張にすぎない「父」を正当化する必要があったからなのだ。この古典的モデルは「どうして女がいるのか」と問いかけているように見せかけながら、じつはもっと厄介な問い「どうして男がいるのか」を問うているのである。
「女性の存在が必要である」とか、創造主は「なにか大きな利点がなければ、人間の半分〔女性〕を不完全なもの、いわば不具のものにしたりしないだろう」という確信に満ちた主張の背後には、おそらくもっと差し迫った、しかし問うこと自体が封じられた「男性の存在は必要なのか」という問が隠されている。結局、生殖作用のうちはっきりと知覚できる作用を行なうのはすべて女性なのである。
フェステが「修道衣が坊主をつくるわけではない」と言ったように、ペニスをもっているから男になるわけではない。
要するに、文化が生物学に依拠するのと同程度に、生物学は文化の規範に拘束されるのである。
生殖についての事実を性差についての「事実」に変えてしまうこの文化的なすり替えこそ、わたしが暴き出したいと思っていることなのだ。
クリトリスがこんなにも注目されたのは、むしろその歴史が性差一般の歴史、快楽の社会史の歴史の一部をなしていたからにほかならない。マスターベーションの歴史と同様、それはセックスについての歴史/物語であると同時に、社会規範の歴史/物語でもある。
誰ひとりとしてヴァギナが快楽の源泉だとは思わなかった。