show

Leonardo da Vinci『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上 (岩波文庫 青 550-1)

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上 (岩波文庫 青 550-1)

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 下 (岩波文庫 青 550-2)

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 下 (岩波文庫 青 550-2)

私よりさきに生をうけた人々があらゆる有益で必須な主題を自分のものとしてとってしまったから、私は非常に有益な、または面白い題材を選ぶことができないのを知っている。それで私は、ちょうど貧乏のため一番あとから市場に到着したが、他に品物をととのえることもできないので、すでに他人の素見ひやかし濟みだが、餘り値打ちがないために取り上げられず斷わられた品物すべてを買いとる男のようにふるまうであろう。

經驗の弟子レオナルド・ヴィンチ。

經驗は決して誤らない。ただ諸君の判斷が、われわれの經驗の中に原因を有しないような結果を自分勝手に約束して、誤ったのである。

十分に終りのことを考えよ。
まず最初に終りを考慮せよ。

もし快樂をえらぶとしたら、快樂のうしろには面倒と悔恨とをもたらすものがついていることを知っておくがいい。

感性は地上のものである。理性は觀照するとき感性のそとに立つ。

人間たちの作品と自然のそれとの間にある比は人間と神との間にあるそれに等しい。

自然の中には理法なき結果は何ひとつ存在しない。理法を理解せよ、そうすればおまえの経験は必要ではない。

ここにひとつの疑惑が生じる。すなわち、ノアの時代に襲来せる大洪水は普遍的ふへんてきなものであったかどうかということである。ここでは、以下述べるようないくつかの理由によっていなであるようだ。われわれは『聖書』において、かの大洪水は四十日四十夜間断かんだんなくかつあまねく降りつづいた雨によっておこり、かかる雨水は世界最高の山を六ゴミティ〔肘尺〕のりこえたということを読む。もしそのとおり降雨が普遍的なものなら、それは球形をなすわが地球を包んだのである。球面のあらゆる部分はその球心から等距離にあるからだ。それゆえ水圏が上述の状態であるとしたら、そこの水は動くこと不可能である、けだし水は、くだるのでなければ、ひとりでに動くものではないから。従ってここで水が動かないと証明されたら、そんなたくさんの洪水の水がどのように退しりぞいたのか。そしてたとえ退いたにしろ、天にでも上る以外に、どのように動いたであろうか。ここには自然な理由が欠けている。

言ってくれ、サンドロ、君はどうおもうか。ぼくは本当のことをいおう、ぼくは成功しなかったのだ。